5ラパロスコピストの夢20252025年9月25日 07:00
それは、経営学でいう「ピーターの法則」
ひとしきり語った後、笑仁先生はこう続けました。
「のう、タカシよ。この『昇進するたびに、新たな壁にぶつかる』という現象は、なにもわしら外科医だけの話じゃない。これは、経営学の世界で『ピーターの法則』と呼ばれる、普遍的な罠なんじゃ」
「人は、その組織の中で、自らの能力の限界まで出世する。そして、能力が通用しなくなった地位(レベル)で、『無能』になる、という法則じゃ。…わしらの世界も、全く同じじゃろ?」
「手術が上手い者は、指導医に『昇進』する。じゃが、教えるスキルがなければ、そこで『無能な指導医』になる。指導が上手い者は、管理者に『昇進』する。じゃが、経営のスキルがなければ、そこで『無能な管理者』になる。皮肉なもんじゃが、これが多くの組織で起きとることなんじゃよ」
処方箋は、600年前にあった
次から次へと現れる「愚者の山」。では、私たちは、このキャリアを通じて何度も訪れる罠と、どう向き合えば良いのでしょうか。
絶望的な問いに、笑仁先生は、意外な答えをくれました。
「その処方箋はのぅ、わしらが考え出すずっと前、600年も前に、世阿弥という能楽師がちゃんと遺してくれとるよ」
「初心忘るべからず、って言うじゃろ?」
先生によると、この言葉の真意は、単に「始めた頃の気持ちを忘れるな」ということではありません。若い頃の初心、壮年期の初心、そして老いてなお持ち続けるべき初心。人生の各ステージで、新しい山に挑むたびに、謙虚な学び手としての一歩目を踏み出せ、という教えなのです。
真の熟練医とは、「愚者の山」に一度も登らない完璧な人間ではありません。 自分が今、新たな「愚者の山」に登ってしまっていることにいち早く気づき(メタ認知)、その山から潔く下りる勇気を持ち(謙虚さ)、そして再び学びの坂を登り始める情熱を失わない人(初心)のことなのでしょう。
【補足解説】外科医のキャリアを阻む、3つの「無能化」の壁
さて、最後に少しだけ補足として、物語の中で触れた「キャリアにおける繰り返される愚者の山」について、経営学の「ピーターの法則」を参考に、より具体的に整理してみたいと思います。
外科医のキャリアには、その成長段階に応じて、大きく分けて3つの「無能化」の壁が存在するように、私は感じています。
第一の壁:手術適応の拡大と「臨床的無能化」
これは、外科医として最も危険な壁かもしれません。標準的な手術で成功を重ねた医師は、自信を深め、より困難な症例へと手術適応を拡大していきます。しかし、自分の能力を過信し、身の丈に合わない難症例に手を出した結果、大きな合併症を引き起こしてしまう。この瞬間、その医師は「自らの臨床的能力の限界まで昇進し、無能化」したのです。
第二の壁:プレイヤーからマネージャーへの「管理的無能化」
臨床医として高い評価を得た医師は、やがて指導医やチームリーダーといった管理的な役職へと昇進します。しかし、そこで求められるのは、個人の手術スキルではなく、チームをまとめ、若手を育成するマネジメント能力です。優れたプレイヤーが必ずしも名監督になれないように、この役割の変化に適応できず、リーダーとして機能不全に陥ってしまうのです。
第三の壁:コミュニケーション能力の欠如による「社会的無能化」
そして、現代において最も見過ごせないのが、この壁です。どんなに手術が上手く、指導が的確であっても、コミュニケーション能力が欠如していれば、パワハラなどの問題を引き起こし、周囲の信頼を失います。その結果、チームを率いるどころか、その場にいることすら許されなくなり、強制的に退場させられる(社会的無能化)というケースも少なくありません。