今回は、少々哲学的、そして、宗教の話も入った、込み入った話になってしまうことをご容赦願いたい。
一人ごとのようであるが、重要な示唆を含んでいる自負があるのであえて記す。
今回の記事は、このような人を対象にしている。
- 自分が何のために生きているのか分からない
- お金はたくさん手に入れたけど、将来が不安
- 自分がこれから老いたり、病気に苦しむこと、死に臨むのが不安
それでは、始めよう。
目次
人間が生きていくためには、健全な肉体だけでは足りない
今は肉体が健全で生気が漲(みなぎ)っていたとしても、それがずっと続くとは限らない。
また、肉体が健全でも、自分が何者で、何のために生きているのかわからないという人がこの日本には山程いる。
健全な肉体のほかに大切なものはなんだろう。まず、先にものべたように、自分は何者なのか、何のために生きているのかを示してくれるものが必要だ。
また、生きていくにはお金も必要だ。お金を稼ぐには、それなりに自分の人間としての能力がないといけない。能力は、鍛えないといけない。
では、生きる意味がわかって、人間としての能力もあり、お金を稼げれば万事ハッピーか?
残念ながらそんなことはない。Toshiは医者をしているから特に感じるのだが、生きている限り、「老い」「病」「死」は免れることができない。(生老病死という)我々人間は致死率100%なのだ。
神道と仏教とキリスト教の違い
では、どうするか。古来から人類はこの問題に悩まされてきたが、ときどき、偉大な宗教家が現れて、上の問題を解決する重要なヒントを人々に与えた。
たとえば、日本の神道。これは、われわれ日本人が伊邪那美、伊邪那岐の子孫であり、神武天皇の子孫であり、日本という国民国家の一員であることを我々に教えてくれようとしている。いわば日本人専用の宗教といってよい。そして、我々の生きる目的(のうちの重要な一つ)が、日本国家を発展させること、われわれ日本民族が発展するように力を尽くすことであることも教えてくれる。
しかし、神道にも欠点がある。神道は我々の生きる目的を示してくれるが、そこに至るまでの道を示してくれるわけではない。(神「道」というにもかかわらずだ!)目的地を教えてくれるがルートを教えてくれないのだ。
そこで登場するのが仏教である。仏教というのはもともと、自分の努力でもって生きる上での様々な苦しみを克服しようという、非常にマッチョな教えである。いわば、仏道とは男の生きる道だ。(本サイトでToshiがいつも述べている考え方に近い。Toshiはいつもは仏教的なことをピックアップして述べていると思ってほしい。)
もちろん、仏教が万能かというとそうではない。仏教は神道とは逆に、我々が何者であるかということは教えてくれない。そう考えると、神道と仏教とは日本の歴史の中で互いに補完しあいながら存在してきたといえる。
(参考までに、キリスト教の教えだが、これは民族は関係なく信仰可能である。キリスト教の教えでは、信者は神の子であるとともに、どう生きたらいいのかということも聖書に書いてある。つまり、キリスト教は神道の役割も仏教の役割も両方やってくれるのだ。)
誰も教えてくれない大切なこと
自分の存在意義と、そこへたどり着く方法は、どうやら宗教が与えてくれそうである。生老病死の「生」の大部分は宗教がある程度支えてくれるだろう。
では、生きるためにはそれだけで十分だろうか?
ノー。まだ大切な問題が残っている。「老」「病」「死」だ。
これらは生の重要な部分を占める。人間は致死率100%であることに加え、若い時よりも老いている(若くない)期間の方が長いのだから。
この老病死についても、宗教は「一応の」解答を与えている。しかしそれは難しいし、誰にでも実践できるようなものではない。仏教の言葉を用いれば、実際に「解脱した=苦しみから完全に解き放たれた」人をToshiはまだ見たことがない。
では、私達には道がないのか?そんなことはない。
私達日本人には強い味方がある。ひとつは国家による社会保障制度。医療保険とか介護保険というやつだ。そして、もう一つは、家族という共同体だ。(家族がいない人も、友人などと共同体をつくることは可能である。しかし結束力=絆は家族には敵わないのかもしれない。)
家族というのは面倒くさい。しかし、しっかりとした家族をもつことが、自分の人生の根本問題(生老病死)を軽減すること(皆で分かち合うこと)につながるのだ。
ひとりぼっちで生きるのではなく、社会・共同体をつくることが、人間として豊かに、まっとうに、悩み苦しみを軽減しながら生きる一つの良い道ではないかと思う。
最後に
ただの生命体、遺伝子の乗り物じゃない。
「人と人の間にいること」
それこそが人間の本質である。
Toshi